竜の気配
2015年の個展『sequence dragon』から、竜を題材にすることも増えました。竜という存在は、実在しないとされながらも、世界各地の神話や信仰に現れ、人々の想像の中で息づいてきました。「物理的には存在しないが、多くの人が共通して認識している」――その意味では、思考、概念、常識、規則などもそれに通じると考えています。 それらはときには私たちを制限し、攻撃するものとして、ときには創造の原動力や心の支えとなって、私たちに寄り添い続けます。その姿の、始まりも終わりも見えぬまま。

私たちは社会の中で、他者と多くのものへの共通認識を持っている。何か一つのものを、他の人たちと一緒に指差して、「何の物質である」「何の現象である」と理解を確かめ合うことはできる。でも、その物質や現象に対する感想や分析は、共通する部分を持っていても、全く同じにはならない。どう感じたか、それを元にどう行動するのか。それは自分だけのもの。自分の「竜」を観測しているのは自分だけ。

あらゆる「他者」や「物語」に触れることが多い世界で、私たち一人ひとりの内に棲む「竜」は、「正解」や「成功」や「理想の幸せ」を追い求めさせ、心を揺さぶり続けている。しかし、未来はまだ存在せず、過去はすでに過ぎたもの。他者の成功は 他者のもの。本当に手にしているのは「今、この瞬間の自分」だけ。今、持っているものが全て。だとすれば、「今のこの状態であること」は、「完全」なのではないか。どんなに揺れていたとしても。

理想について考えている自分と、その通りに実行できなかった自分の、どちらが「私」なのだろうか。この複雑さがどこで発生したのか、覚えていない。
そして次の一歩の時、私はこの複雑さをどのように使うのだろう。あるいは、この複雑さは、私をどこへ連れていくのか。

家族といるとき、会社や学校にいるとき、一人でいるとき。「私」は変わらないはずだけど、服を着替えるように振る舞いは変化する。何も纏わない姿は、本当の自分自身なのか。「今、この私でいよう」という価値観を、どこかの過程で、私は養ってきたのだ。

想像や思考、概念、常識、規則などは、私たちの生活とは切り離せない。 それらは、制約や障害になることもあるが、ときには人間を奮い立たせたり、導くこともある。その時、結局は人そのものが、自分たちを間接的に導いているかも知れない。

数多くの文化や環境があり、また、個人においてもまたそれぞれ違うものを持っている。それぞれがどのように繋がっているのかは、想像や概念によるのかも知れない。私たちの間で、架け橋となる竜。それは姿を変えられる。より良いかたちを求めて。

新しく発生した二つの目では、これまでの目では見られなかったものを見る。人間が生み出 す観念や想念の象徴としての竜は、私たちのそばから消えることがない。その竜に挟まれながらも、過去の観念や想念を超えることを目指す。

強風をしなやかに受け流す竹。自分自身の思考や感覚も、吹かれるままに揺れる素直さと柔軟さを保てたら。風にほぐされる時間は、安らぎのときとなるのではないか。そして竹はまた、高くまっすぐ育つ。天に向かって。

終わりも始まりもない、円。想像や思考、精神状態が一つの完成を迎えるとき、竜は円環のかたちに整う。惑わされずに、偏らずに。心は落ち着き、澄み切っている。曇りのない鏡のように。


思考という行動や観念が消えることはあるのだろうかと考えることもあります。そうなったら、自分はどのように存在しているのでしょう。それは可能なのか。生まれたときから共にいる「竜」。それを終わらせるために必要なものは、物理的な力ではないように予感しています。
「竜」を殺せるのは、「竜」だけなのか。
竜の終わりは、どこにあるのだろうかと思います。

